グローバルビジネスと人権:「コンプライアンス」と「ビジネスと人権」今さら聞けない素朴な疑問(その1)
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グローバルビジネスと人権:
「コンプライアンス」と「ビジネスと人権」
今さら聞けない素朴な疑問 (その1)
2023年8月
One Asia Lawyers Group
コンプライアンス・ニューズレター
アジアSDGs/ESGプラクティスグループ
はじめに
コンプライアンスやビジネスと人権に関して、いろいろな言葉や説明が錯綜してわかりにくいと思っている人は少なくないと思います。このニューズレターではそうした概念や考え方について、次のような設定をもとにしたQ&Aの形式でわかりやすく解説することにいたします。
舞台設定
Aくんは、ある国立大学の法科大学院を修了し、一昨年から大手企業で法務コンプライアンスの担当者として勤務している。
企業は、投資家たる株主のために利益を追求する主体であると会社法の授業では教えられた。他方で、最近では企業の社会的責任や法令等を厳格に遵守すべきことが唱えられている。そのための管理コストが大きくなり、それが利益を圧迫するかも知れない。さまざまな手続きやペーパーワークが増えたためか、とくに事業部門の人たちの提出が遅れがちになり、催促しなければならないことも多くなってきた。しかしこれも時代の要請であり、万一にも不祥事に巻き込まれることのないように、従業員の一挙手一投足に対しても注意を怠らず、厳しく徹底していくのが法務コンプライアンス担当者の責任であると自分自身に言い聞かせてきた。
しかし入社以来、製造部門や営業部門の人たちからなんとなく鬱陶しがられているのを感じている。彼らには法律の基礎知識がないからかとも思うが、自分自身も製造や営業の仕事について殆ど知らないことも少し気になってきた。工場が製品の納期に追われて忙しいときに、コンプライアンス関係の書類を催促すると、製造工程をコーディネートする少し年配の人から「俺達は今、お客さんに催促されて深夜まで働いているんだ。お客さんを満足させることがわが社の一番大事な仕事じゃないのか」と言われてはっとした。他方でAくんの上司からは「コンプライアンス関係の書類の期限を厳しく守らせるのが君の仕事だ」と言われている。
Aくんは、色々と本を読んだりウェブで調べたりしたが、どう考えるべきなのか整理がつかず、少し悩んでいる。またコンプライアンスだけでなく、最近よく言われるESGや「ビジネスと人権」についても実はよく分かっていないことが色々ある。
そこでAくんは、法科大学院のときに、大学主催のセミナーで「人権DD」について話をしていたB先生を思い出した。B先生はAくんと同じ大学で法律学を学び大手企業に勤務していたが、その後アメリカのロースクールでLL.M.を取得してビ現在はジネスコンサルタントをしながら「ビジネスと人権」に関するNGOの仕事もしている人である。AくんがB先生にメールで連絡し自分が悩んでいる点を説明し、基本的な問題も含めて色々と教えてもらいたい旨を伝えたところ、面談を快諾してくれた。
疑問点1;さまざまな用語の意味と背景
(Aくんの質問)
非常に基本的で恥ずかしいのですが、最近、ビジネスに関連してガバナンスとかコンプライアンスとかESGとか色々と似たような言葉がたくさんあって、ややこしくて困っています。それらの関係について簡単に教えていただけないでしょうか? 司法試験には直接関係しないので、法科大学院ではほとんど教えてもらえませんでした。
(B先生の回答)
確かにややこしいですね。これらの言葉が生まれてきた共通の背景には、社会生活のさまざまな局面において、企業の活動が社会に与える重大な影響についての問題意識があったと思います。
コーポレート・ガバナンス
コーポレート・ガバナンスという言葉は古くから用いられています。それが日本で議論の中心となったのは、バブル崩壊の頃からです。それまで日本の大企業は、メインバンク制や株式の持ち合いなど独特の方法で運営され、それなりに成果をあげてきました。従業員は終身雇用制で守られ企業内労働組合の存在感もありました。他方で取締役会や株主総会は形骸化していました。経営者に対するチェックが機能せず放漫な経営によってバブル経済が生じたという考えが広まりました。その結果、株価が急落して一般株主は大きな損失を被ったという理解です。だからこの時期の議論は日本型の企業統治方法を根本から見直すという意味で、会社法に関する議論が中心でした。「株主利益の最大化」が企業の目的であるとする議論は、伝用的な日本的企業経営に向けられた批判が中心にあります。社外取締役の導入もこの頃から議論が始まりました。
コンプライアンス
これもバブル崩壊と重なります。多くの金融機関は深刻な破綻の危機に見舞われていました。日本の金融不安が世界に広がることがないように、スイスのバーゼル銀行監督委員会(主要国の中央銀行が中心メンバー)が日本政府に対して金融機関にしっかりした内部統制システムを導入するよう強く要請しました。その時に同委員会が公表した「銀行組織における内部管理体制のフレームワーク」のコンプライアンスに関する部分を金融監督庁(当時)がまとめ金融検査マニュアルを策定したのを契機としてコンプライアンスという言葉が広がりました。このマニュアル自体は金融監督庁の検査官が銀行等を査察するためのものです。この経緯からわかるように、日本ではコンプライアンスが政府による規制に基づくものであるとの認識が定着しました。
アメリカでは企業のコンプライアンスは内部統制とほぼ同じ意味で用いられます。企業はその目的に從ってビジネス活動を誠実に行わなければならないと言う意味です。実はバーゼル銀行監督委員会が 日本政府に提示したフレームワークは、米国のCOSO の「内部統制の統合的フレームワーク」に準拠したものですが、日本政府に米国での動向について十分に理解を深める時間がありませんでした。
米国でのコンプライアンス文化の出発点となったのはウォーターゲート事件です。この時に米国の多国籍企業が海外の政府高官等に賄賂を渡して高額受注を獲得するビシネスが蔓延していました。こうした取引を通じて獲得された裏金が選挙資金として流入し、 大統領府さえも腐らせてしまう現実はアメリカ中に大きな衝撃を与えました。連邦議会はこれを国家存亡の危機と受け止め、外国公務員への贈賄に厳罰を課す海外腐敗行為防止法(FCPA)を1977年に制定しました。同法は米国の上場企業等に対して、適正な会計処理が行われるように内部統制を義務付けました。その具体的な方法を探求するために米国企業のビジネスの実態について詳細な調査が行われ、それに基づいて企業監査の専門家の組織であるCOSOが「内部統制の統合的フレームワーク」を公表しました。内部統制は不正な会計処理や法令等の遵守だけでなく、企業がその目的に即して効率的なビジネスを行うことを支援するためのものです。それは詳細な規則ではなく、いわば内部統制システムの建築基準のようなもので、各企業はそれに準拠しながら、それぞれの企業の目的や置かれた状況を考慮して柔軟に内部統制システムを設計することになります。コンプライアンスと言う言葉自体は、英語では広く用いられるもので、特殊な法律専門用語ではありません。企業に関しては、各企業の目的に從って誠実にビジネス活動を行うこと、またはそのための体制づくりを意味します。
しかし日本では、以上のような経緯から、コンプライアンスは行政による画一的な厳しい規制を遵守することを意味するものとしてすっかり定着してしまったようです。
ESG
ESGは 環境・社会・ ガバナンスの英語表記の頭文字をとったもので、 OECDの多国籍企業行動指針などにも見られます。この言葉が注目を集めるようになったのは、国連と産業界との共同イニシアチブであるグローバルコンパクト創設の頃からです。国連事務総長であったコフィ・アナン氏が産業界に協力を呼びかけたことによって1999年に創設されました。多くの企業がメンバーとなり、産業界としてグローバルな公共政策課題に取り組むことを目的としています。その後、このような国連と産業界・金融界との協力は様々な形で推進され、特に国連と機関投資家とのイニシアチブである「責任投資原則」(2006)では、 ESG 課題に真剣に取り組むビジネスに対しての融資を促進しています。金融を用いてビジネスの方向付けを行う方法には強いインパクトがあり、責任投資原則の他にも様々なものが立ち上がっています。企業が特にESGと言う言葉に敏感になったのはこうした経緯によります。
UNGPsとSDGs
UNGPsは「国連ビジネスと人権に関する指導原則」の略称です。これは国連事務総長の特別代表であったジョン・ラギー教授(ハーバード大学)が、 広範な調査と利害関係者との意見交換をもとにまとめた文書で、国連人権理事会が2011年に採択したものです。ラギー教授はグローバルコンパクトの結成にも関わっています。
企業を国家に従属するものとして、条約により人権を尊重させる義務を垂直的に強制する方法が失敗に終わったため、それとは根本的に異なるアプローチがUNGPsでは採用されています。つまりビジネスにおいて人権を尊重する責任は、各企業が天賦のものとして直接に負うべき責任(企業の人権尊重責任を)とされ、国家と協力しながらそれを促進していくことが求められます。それを果たすため、企業が日々のビジネス活動に組み込むべき実務を人権DDと呼びます。UNGPs に 国連人権理事会がこうした問題に対する様々な取り組みの「権威あるフォーカルポイント」としての位置付けを与えています。世界中の幅広い関係者と様々なパートナーシップを促進してきた新しい国連の役割を示すものといえます。日本政府もやっと本腰を入れて取り組み始めたところです。UNGPsはそれ自体に法的拘束力はありませんが、産業界も含めた多くの関係者の支持を獲得しています。
SDGsは 2015年に開催された国連サミットで採択された2030年の全人類の達成目標です。これはビジネスに限らず、地球上のすべての人が協力して取り組むべき、地球温暖化・自然災害・戦争・性差別・人種差別等についての具体的な達成目標を示しています。幅広い目標を国連の権威によって集約した人類全体のいわば憲法のような存在です。SDGsは日本では地球温暖化や環境問題に関して注目されていますが、その内容には伝統的な人権に関するものも多数含まれています。
日本で「人権」と言う言葉は、歴史的経緯から、女性の参政権・部落や在日外国人差別・公害問題・労働問題などの特定の問題について用いられることが多かったと思います。これに対してSDGsは世界市民の公平平等や世代間格差への対応などの差し迫った課題を包括的に整理したもので、それらを新時代の人権問題と呼ぶことも可能です。SDGsは2015年に採択されましたが、これまでのビジネスと人権に関する様な取り組みは、SDGsの大きな傘の下で位置づけを与えられ、 統合的に把握されるようになるでしょう。例えば、グローバルコンパクト等のイニシアチブのウェブサイトでも、SDGsに言及することが積極的に行われています。
マネジメントの父と言われるドラッカーは晩年の著作『明日を支配するもの』のなかで、専門化が進み知識が重要な資源となる今日の世界では、各メンバーが自分自身の持ち場に責任を持つことを前提として、全体を方向付けるリーダーが必要とされると述べています。つまりそれはオーケストラの指揮者のような立場であり、国連もそうした役割を果たそうとしているように見えます。
疑問点2:人権DDとサプライチェーン
(Aくんの質問)
ところで「ビジネンスと人権」とサプライチェーンとはどのように関係するのですか?日本政府が人権DDに関連して公表した「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」がこの言葉を用いているので気になっています。
(B先生の回答)
ビジネスと人権の問題は、とくにグローバルなサプライチェーンのどこかの段階において奴隷的な労働に携わる人たちが急激に増加したことと深く関連しています。
日本ではとくにユニクロのシャツがウイグル産の綿を使っていた疑いのため、米国政府によって輸入が禁じられた事件が話題となりました。これはユニクロのサプライヤーの問題ですが、発注した企業も大きな損失を被ることになります。日本には多くの製造業があり、サプライチェーンは中国やアジア諸国に広がっているため、日本政府はガイガイドラインの公表を急いだようです。作業は昨年春から始まり9月にガイドラインが公表されました。
サプライチェーンのどこかの段階で強制労働が行われていたり、違法採掘による鉱物が混入していたりするのを見逃せば、最終商品を購入した消費者がそうした犯罪的活動を実質的に支援することになり、状況はどんどん悪化します。そうした活動の多くに確信犯的な人々が関与しており、人身売買・強制労働・環境破壊・外国公務員への贈賄・違法薬物販売・マネーロンダリング等が 深く結びついていることが少なくありません。とくに紛争地域のように統治体制が崩壊した地域に多く見られ、コンゴでは人々を借金漬けにして錫などIT製造に重重要な鉱物がそうした方法で採掘されていたので紛争鉱物と呼ばれています。そうした境遇に置かれた人達は日常的に暴力を受け、危険な採掘作業によって心身を蝕まれ、命を落とすことも稀ではありません。残念なことですが、先進国の消費者市場拡大がその原動力となっています。研究者等の調査によってそうした事実が明らかにされ、今では「現代奴隷」という言葉がすっかり定着しました。
話を日本政府ガイドラインに戻しましょう。すでにOECDは人権DDの実務指針となる各種ガイダンスを公表してきています。まずリスクの高い産業セクター毎のものが公表され、 2018年にはすべての企業が用いることができるガイダンスも作られました。日本語に訳された冊子もあります。だから政府がなぜ急いで同じような内容のガイドラインを作成したのか については、少し疑問が残ります。おそらく日本企業はOECDに対する関心は薄いけれども、政府からの指示には注意を払うだろうということでしょう。
しかし、人権DD自体が「企業の人権尊重責任」を果たすためのものだとすれば、政府の指示に従えば企業はそれで免責されると言うことにはなりません。UNGPs の最大の目的は、企業自体が国家からの強制とは無関係に人権尊重責任を負うことを明確にした点にあります。つまり企業の自主的な取り組みが要請されています。また日本もOECDに加盟していますから、日本企業はこうしたガイダンスも当然に参照する必要があります[1]。「ビジネスと人権」はグローバルな取り組みだから、日本の企業も政府の言っていることだけに従っていれば良いと言う話ではありません。最近ではAI等を活用した翻訳ツールも色々とあるのだから、英語を読むことができないとの言い訳はもう通用しません。君の会社も、こうした国際的な動向を踏まえた上で、グローバル水準のコンプライアンス体制を構築していくことをぜひ考えていただきたいと思います。
疑問点3: コンプライアンスと法令遵守
(Aくんの質問)
ところで「コンプライアンスはよく法令遵守と訳されていますが、最近ではセクハラや技能実習生の問題なども入っているような雰囲気になってきました。パワハラや保険金の不正請求などでマスコミやSNSで非難される企業も増えているので、法務コンプライアンスの関係者で慌てて職務倫理規程を作りました。今、従業員に周知徹底するための研修をしていますが、とくに営業担当者に受けが良くなくて….
(B先生の回答)
重要な点ですね 。コンプライアンスはすでに説明したように、企業がその目的に従って誠実にビジネス活動を行うことを要求します。関係法令を遵守することも当然含まれますがそれに限定されません。つまりコンプライアンスは「法令遵守」よりも広い概念です。それは誠実なビジネスを可能とする体制づくりだから、マネジメントシステムの一環とも言えます。 だから上級経営者が責任を持って実施すべきものです。
君の会社の倫理規程は特に人権に関する問題に対応するのが目的だとすれば、人権DDの一環ですね。もちろんそれもコンプライアンスに含まれますが、その特徴はビジネス活動が広く社会に及ぼす負の影響を防止することにある点です。つまり日常業務に関するチェック機能の不備とか不正経理とかいった企業内部の問題とは一応区別することもできます。
こうした企業の責任は法律学では主に不法行為責任として処理されてきました。公害がその典型例です。しかし大きな被害が生じてからの事後的救済ではあまりに不十分なので、それを未然に防止するための方策として人権DDが重視されています。それを効果的に行うためには、各企業が自らの特徴や具体的な状況に応じて、社会に対して及ぼす負の影響について具体的なリスク評価を実施することが必要です。これは法務コンプライアンスの担当者だけでできるものではありません。
リスク評価を行う目的は、限られた資源を効果的に配分するために、優先順位付けを行うことにあります。あらゆるリスクを羅列してそれを片端から潰すようなことを要求すれば、ビジネスの担当者は本来の職務に使う時間がなくなってしまいます。日本社会は「万全」とか「総点検」とかいった言葉が好きですが、企業は収益をあげなければならないから、過剰な要求は企業の目的に反することになります。これは様々な要素を考慮して行う難しい判断だから、色々な部門の置かれた状況を正しく把握した上で、規程を作る必要があるでしょう。法務コンプライアンスの関係者だけで作ると、どうしても網羅的なものになりがちです。またビシネス活動の前線で収益をあげようとする人たちが背負っている業務の難しさも忘れがちになります。もちろん、営業担当者の主張に対し、コンプライアンスの担当者が毅然と対立しなければならない場面は少なくないでしょう。しかしそのときにも、お互いの立場を理解して、効果的で負担の少ない方法をぎりぎりまで考え抜くことが大事だと思います。
実践において無理のある規則を作ってしまうと、その規則に従うことを要求された人たちは、自分の職務を侮辱され、人間として軽んじられているように感じます。これは直ぐに目には見えないかもしれないけれど、確実に企業を蝕んでいくことになります。
だから君の会社の職務倫理規程は、事業部門の人たちとしっかりコミュニケーションをとって、そうした人たちが日々のビジネス活動の中で責任をもって守ることに納得した、実践可能なものとしなければなりません。トップマネジメントの判断や支援が必要とされる場合もあるでしょう。会社の将来にとって、 君に与えられた役割は極めて重要です。
おわりに
(Aくん)
自分の仕事がこんなに重要だとは思っていませんでした。色々と教えていただき有難うございました。厚かましいお願いですが、次の機会に、COSOのフレームワークのことや人権DDの具体的な進め方なども教えていただけないでしょうか?それから、そもそも企業とはどういった存在なのかも気になってきました。経営学とかほとんど勉強しなかったので。
(B先生)
分かりました。私で良ければ、喜んで説明させていただきます。次回ですが、来月の今頃にZoomでお会いするのはいかがでしょうか? (次回に続く)
〈注記〉本資料に関し、以下の点をご了承ください。
・ 本ニューズレターは2023年7月末時点の情報に基づいて作成されています。
・ 今後の政府による発表や解釈の明確化、実務上の運用の変更等に伴い、その内容は変更される可能性がございます。
・ 本ニューズレターの内容によって生じたいかなる損害についても弊所は責任を負いません。
[1] https://www.oecd.org/investment/due-diligence-guidance-for-responsible-business-conduct.htm