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グローバルビジネスと人権:「コンプライアンス」と「ビジネスと人権」今さら聞けない素朴な疑問(その3・ 完結編)

2023年10月16日(月)

グローバルビジネスと人権に関するニュースレターを発行いたしました。 PDF版は以下のリンクからご確認ください。

グローバルビジネスと人権:「コンプライアンス」と「ビジネスと人権」今さら聞けない素朴な疑問(その3・完結編)

グローバルビジネスと人権:
「コンプライアンス」と「ビジネスと人権」
今さら聞けない素朴な疑問 (その3 完結編)

 2023年10月
One Asia Lawyers Group
コンプライアンス・ニューズレター
アジアSDGs/ESGプラクティスグループ

 はじめに

コンプライアンスやビジネスと人権に関して、いろいろな言葉や考え方が錯綜してわかりにくいと思っている人は少なくないと思います。このニューズレターではそうした問題について、次のような設定によりQ&Aの形式でわかりやすく解説することにします。

舞台設定

Aくんは、ある国立大学の法科大学院を修了し、一昨年から大手企業で法務コンプライアンスの担当者として勤務している。

企業は、投資家たる株主のために利益を追求する主体であると会社法の授業では教えられた。他方で、最近では企業の社会的責任や法令等を厳格に遵守すべきことが唱えられている。そのための管理コストが大きくなり、それが利益を圧迫するかも知れない。さまざまな手続きやペーパーワークも増えて、とくに事業部門の人たちの提出が遅れがちになり、催促しなければならないことも増えてきた。しかしこれも時代の要請であり、万一でも不祥事に巻き込まれることのないように、従業員の一挙手一投足に対しても注意を払い、厳しく徹底していくのが法務コンプライアンス担当者の責任であると自分自身に言い聞かせてきた。

しかし入社以来、製造部門や営業部門の人たちからなんとなく鬱陶しがられているのを感じている。彼らは法律の基礎知識がないからかとも思うが、自分自身も製造や営業の仕事について殆ど知らないことも少し気になってきた。工場が製品の納期に追われて忙しいときに、コンプライアンス関係の書類を催促すると、製造工程をコーディネートする少し年配の人から「俺達は今、お客さんに催促されて深夜まで働いているんだ。お客さんを満足させることがわが社の一番大事な仕事じゃないのか」と言われてはっとした。他方でAくんの上司からは「コンプライアンス関係の書類の期限を厳しく守らせるのが君の仕事だ」と言われてきた。

そこでAくんは、法科大学院のときに、大学主催のセミナーで「人権DD」について話をしていたB先生を思い出した。B先生はAくんと同じ大学で法律学を学び大手企業に勤務していたが、その後アメリカのロースクールでLL.M.を取得して現在はビジネスコンサルタントをしながら「ビジネスと人権」に関するNGOの仕事もしている人である。今日はとくにAくんからお願いして 設定してもらったZoomでの3回目のミーティングである。

今日の話題: 企業とイノベーション

疑問点1: 企業と利潤追求

【Aくん】今日のお忙しいなか時間を作っていただきありがとうございます。早速ですが、 先日お話しした とき、先生は 企業の目的を利潤追求だとする事は不正確だと言われましたが、 どこが不正確なのでしょうか? ずっと気になっています。

【B先生】私は今では「 企業の目的は利潤の追求だけでは説明できない」と思っていますが、それを理解するのにかなり時間がかかりました。でも考えてみれば当たり前のことです。

なぜなら企業だけでなく、あらゆる組織が存続するためには利益が必要だからです。大学でも病院でも神社でも、出費が収入を上回れば遅かれ早かれ立ち行かなくなります。 企業の場合、自らのビジネス活動による収入が財源の中心を占めると言う意味で、 他の組織と少し違います。しかし、企業も政府から補助金をもらうことはあるし、病院や大学にも自らの活動によって獲得する収入はあります。 いずれにせよ組織が存続するためには資金的な余力が必要とされます。

【Aくん】それはそうですが、国立大学のように国家からの予算が大部分を占める組織と企業とでは本質的に違うのではないでしょうか?

【B先生】確かにマネジメントの方法はかなり違うでしょう。国立大学のような予算中心の組織では、予算を少しでも多く獲得することが 存続のための至上命題となってしまうので、政府の方針に敏感にならざるをえません。また一旦予算を獲得してしまうと、今度はそれを年度内に使いきれなければ過剰な予算を要求したことにされてしまいます。だから年度末には、かなり乱暴な予算消化が行われることも残念ながら起こりえます。それに対して、予算に見合った成果を上げているのかどうかについては、真剣な関心を持つ利害関係者があまりいないと言う深刻な問題もあります。だから予算制の組織をマネジメントすることは一筋縄ではいきません。

それと比較すると、企業は本業のビジネス自体でお金を稼がなければならないので、組織全体の力をそこに集中させる事は比較的容易でしょう。しかし、君もそうですが、大企業の中で管理部門で働く人たちは、 ビジネス活動によって利益を上げることに直接関与していないから、事業部門の人たちとかなり距離ができてしまいますね。その意味では政府機関のような予算制組織で働く人たちと同じような感覚を持つのも不思議ではありません。

【Aくん】つまり、僕ももっとビジネスの成果に焦点を合わせて自分の仕事を考えなければならないって言う事ですね。でも利益追求が企業に特有の目的でないとすれば、企業の目的はどのように理解すれば良いのでしょうか?

重要な点ですね。この点についてドラッカーの説明が分かりやすいと思います。彼は、企業の目的は「顧客の創造」であるといいます。つまり企業の目的は、企業の外にいる人たちに優れた商品やサービスを提供することであり、それが企業の成果だとします。また企業内にあるのはコストだけであるとも言っています。成果が同じならコストは小さい方が良いことになります。つまり業務を効率化し、労働者の生産性を高めることによって、コストを低く抑えることが必要です。高く売れる商品を安く作れば当然に利益が大きくなります。でも、企業の目的がそれだけであれば単なるブラック企業ですね。

現実には、成功している企業の多くは、そんな卑しい存在ではなく、私たちの生活を豊かにしてくれるためになくてはならない存在です。

疑問点2: 企業による「顧客の創造」

【Aくん】ところで、ドラッカーが言う「顧客の創造」ってどういうことなのでしょうか?

【B先生】彼が言う顧客の創造とは、企業が新しい市場を作り出す重要な役割を果たしていると言う意味です。比較的最近の例では、iPhoneの登場が分かりやすいと思います。それまでスマホは世の中になかったわけです。またそんな商品が欲しいと明確にイメージできる消費者もいなかったと思います。アップルがどのようにしてiPhoneを思いついたのかは知りませんが、それが私たちの潜在的な欲求を満たすものであった事は今では明らかです。

最初は皆、iPhoneはガラケーやブラックベリーの単なるライバルだと思っていました。でも今では、パソコンやデジカメやハンディカムやシンセサイザーのライバルであるだけでなく、CDやテレビや漫画雑誌やゲーム専用機やカーナビのライバルでもあります。YouTuberのような仕事まで生み出しました。

私たち自身さえ気づいていなかった欲求を満たすことで、あっという間に大きな市場を生み出し、人々のライフスタイルに大きな変化をもたらしました。SNSがこれほど影響力を持つようになったのも、スマホが普及したからですね。

【Aくん】なるほど。それがイノベーションってやつでしょうか?

【B先生】そう言えると思います。しかしスティーブ・ジョブズは最初からこうした展開を全て見通していたわけではないと思います。確かに iPhoneはインターネットにつながった小さなパソコンとして、ソフトウェアをアップデートすることで問題点を改善し、アプリ によって新しい機能を追加することができます。これはすでにパソコンで起こったことであり、彼は最初から計算に入れていたと思います。でもiPhoneの発展の過程で、色々と意外な展開はあったのではないでしょうか。

例えばiPhoneのカメラがここまで使われるようになると予測していなかったかもしれません。しかし顧客の動向を見ながら、予期せぬ需要を見逃さず、それを商品の改善に体系的に活用する姿勢は持っていたように思います。つまり、商品の意味や価値を決めるのは顧客であることがよくわかっていたのでしょう。

ドラッカーは「ベンチャーが成功するのは、予想もしなかった市場で、予想もしなかった顧客が、予想もしなかった製品やサービスを、予想もしなかった目的のために買ってくれるときである」と言っています。アップルはそのことがよくわかっていたようです。それが顧客の創造であり、市場を生み出すと言う意味です。

顧客を探し出す活動をマーケティングと呼びますが、イノベーションとマーケティングは分かちがたく結びついていることが多いですね。

【Aくん】なるほど。イノベーションによる顧客の創造が企業の目的の正しい定義と言う事ですね。でもイノベーションって、なんかまぐれ当たりのようなものじゃないんですか?iPhoneだって ジョブズが天才的で奇想天外な発想の持ち主だから作ることができたんじゃないのでしょうか?普通の企業はコツコツと努力するしかないんじゃないかなと思います。

【B先生】そうかもしれませんが、私はそうでは無い気がします。イノベーションの機会を見つけ出すには鉄則があり、7つの機会を見逃さないことだと指摘されています。

第1が「予期しなかった成功や失敗などの出来事」、第2が「現実とそうあるべきものとのギャップ」、第3が「ニーズの存在」、第4が「産業構造の変化」です。残りの3つは、純粋に企業の外部における事象です。つまり第5が「人口構造の変化」、第6が「物の見方・感じ方・考え方の変化」、第7が「新しい知識の出現」です。これらは重複することもありますが、それぞれに分析方法が異なります。

iPhoneの場合、世間で思われているのとは違い、新たな知識や技術はほとんど関係していません。想像ですが、その開発においては、重過ぎるパソコンへの不満や、電話とメールを併用する煩雑さ、ネット環境の変化、若い人たちの見方や感じ方の変化のようなところに焦点が置かれたのではないでしょうか。

最近よく言われるデザインシンキングも影響しているように思います。これを簡単に言えば、ときに矛盾する 様々な欲求を合理的に満たすことのできる商品を徹底的に追求する方法です。できるだけ軽く、電池は長持ちで、カメラは高性能で、通信速度も早く、一定の価格帯に収めるといった要請です。 これらを顧客の満足を最大化するような形で商品化する方法がデザインシンキングです。

疑問点3: 企業の人権尊重責任と法制度のイノベーション

【Aくん】そうですか。イノベーションは体系的に推進することができるとすれば、企業はコツコツと真剣に取り組む必要がありますね。ところでビジネスと人権についても、現実と理想のギャップであるとか、人々の価値観の変化であるとか、イノベーションの機会が色々と見えますね。

【B先生】重要なポイントですね。企業が人権尊重責任を果たすべきだとする人々の強い要求は、明らかにイノベーションの機会の存在を示していると思います。こうした問題にしっかり対応できる企業が社会に強く求められています。しっかりとした体系的な取り組みが必要です。君のような立場の人が、それをリードしなければなりません。

【Aくん】そうですね。まだ経験の浅い僕には少し肩の荷が重い気がしますが頑張ります。

【B先生】ぜひ頑張ってください。「ビジネスと人権」における現実と理想とのギャップは、私は現在の法律学や司法制度にも向けられた不満の表れだと思います。つまり、法制度全般に対するイノベーションが求められている事は明らかです。法律家が提供するサービスについても同じことがいえますね。

だから法律関係者は、この問題をもっと深刻に捉える必要があると思います。これは言ってみれば、司法制度や法律サービスの顧客である人たちから突き付けられた改善要求として理解すべきもののように思います。本腰を入れてイノベーションを促進しなければなりません。

疑問点4: 組織のマネジメントとは

【Aくん】ところで、恥ずかしいのですがマネジメントと言う言葉は正確にはどういう意味なのでしょうか?

【B先生】マネジメントは簡単に言えば、組織に成果を上げさせるように責任を持つ仕事のことです。組織の成果は組織の外部にしか生まれません。だからマネジメントとは「外部に成果を生み出すために、手元にある資源を合理的に組織化すること」とも言えるでしょう。

かつてマネジメントは、既に確立された組織の管理に関する業務だと思われていました。しかし今では、従来の業務の最適化だけでなく、新たなイノベーションのために組織的に取り組むこともマネジメントの役割として重要になってきています。そのためには、今では多数を占めるようになった知識労働者の生産性を高める必要があります。現代の企業にとって最大の資産であり最大のコストは知識労働者だから、彼らを生産的にすることが企業の成果に直結します。彼らは「コンセプトと理論」によって仕事をするので、継続的な教育が重要になります。それは決して形式の問題ではありません。単に研修を何時間行うとか言う問題ではなくて、そのコンテンツが優れたものでなければ何の役にも立ちません。だから研修の講師は、高度な知識は効果的に伝えられる人に依頼しなければなりません。君も法務に関する研修を提供するのであれば、しっかりと研究した上で正しいことをわかりやすく伝えて下さい。

疑問点5: 市場経済とイノベーションとの関係

【Aくん】研修って形だけのものじゃないんですね。そう思ってた自分がちょっと恥ずかしいです。マネジメントの管理機能についてなのですが、日本の有名な大企業のようにブランドが確立したところでは、イノベーションなんか無理してやる必要はないんじゃないかって思っていました。しっかりした固定客がついているから少しずつ商品を改善するだけで十分な収益が得られるのではないでしょうか?

【B先生】そうですね。今の日本の雰囲気を見ていると君のように考えるのが自然かもしれません。「経済を回す」と言う言葉を経済の専門家も平気で使いますからね。

でも経済はそれほど単純ではないと思います。さっきiPhoneの話をしましたが最近発売されたのが iPhone15 Proでしたね。私が今使っているのがiPhone 13で、確か2021年の秋に乗り換えました。その前は確か2019年に発売されたiPhone 11を使っていました。今iPhone 15 Proに乗り換えようかと真剣に検討しているところです。

でもパソコンはもう5年間ぐらい同じものを使っています。それでも特に困ることがありません。

今アップルの主力商品は圧倒的にiPhoneですね。ちょっと前まではパソコンでしたね。でもパソコンは成熟してしまって5年に1度買い替えれば充分だって思っている人は今は少なくないでしょう。

これに対してiPhoneは毎年のように新しいモデルを出して、どんどん乗り換えてもらわなければなりません。しかし消費者の目も肥えてきているので、中途半端な改良加えただけでは新しい機種に乗り換える気にはなってくれません。つまり毎年何か画期的な付加価値を盛り込まないとあっという間に売れなくなってしまいます。アンドロイドを用いるソニー・シャープ・サムソンなどもどんどん魅力的な機種を市場に投入してきます。つまり今年と同じものを作っていたのでは、近い将来には市場から撤退しなければならなくなるでしょう。

そのように考えると昨年の商品にわずかな改良加えて将来も乗り切れると考えるのは合理的ではありませんね。それどころか最も危険な対応策と言えるかもしれません。今、私たちの生活やそれを取り巻く環境は激変してきています。その変化を受け入れて真剣に取り組まないと言う選択は、自ら消滅を選ぶようなものです。

疑問点6: 不確実な未来に向けたマネジメント

【Aくん】でも、イノベーションって確実に生み出せるものじゃないですよね。そんな不安定なものに未来を委ねるわけにはいかないのではないですか?

【B先生】確かに未来は誰にも予測できません。またイノベーションも努力すれば必ず報われるものではありません。でも、その成功率を高めるための方法はかなりわかってきています。各企業が自分自身の強みを見極めた上で、未来に備えるための準備を合理的な方法で今始めるしかありません。論理的に考えれば、それが 唯一の正しい答えだと思います。

【Aくん】う〜ん。法務の仕事は石橋を叩いて渡るような感じだと思っていたので、不確実なものを組織化するというのはちょっと感覚がついていけません。

【B先生】そうですね。でも契約を締結する際にいくら契約条項が完璧であっても、うまくいかない事はいくらでもあります。そもそも契約の成功は、契約当事者間の関係や能力に大きく影響されます。特に長期的なビジネス関係を築くことを目指す場合、私は契約を締結する上では、相手方企業の能力や文化をしっかり確認することの方が優先事項だと思います。

例えば大手製薬会社が大学発のベンチャー企業と協力して新しい薬品を開発するときに、当初の段階でいくら厳密な契約書を作っても成功率が上がるわけではないですね。むしろお互いの間に信頼関係を築くとか、相手の能力や特徴を見極めるとか、それに合わせて相互にうまくサポートできるかどうかとか、そういった関係性の方が重要です。だからこの段階では、成功した先を見越して詳細な契約書を作ってもあまり意味がありません。こうしたイノベーションを目指す契約関係構築の方法についても、かなり研究が進んできています。それもイノベーションの成功率を高めるための工夫として生まれてきたものですね。

【Aくん】そういえば思い出したのですが、最近とても薄くて高機能な充電池が発明されたのですが、会社がその供給先とこれまでに取引関係がなかったので、競業他社に先起こされてしまって、主力商品がちょっと危険な状況にあるって言ってました。そうした意味では、技術力は世界一だと豪語していた分野でも、急にピンチが訪れますね。

【B先生】そうした展開は最近ではごく普通になったように思います。「破壊的イノベーション」と呼ばれる現象ですね。ハードディスクが典型例ですけど、今ではUSBメモリのような大きさで数テラバイトの容量を持つ記憶装置ができたので、ハードディスクはあっという間に時代遅れになってきました。技術が全く違うので、ハードディスク会社が新しいメモリの市場に入っていくことさえできません。それとよく似た事は電気自動車でも起こっているようですね。基本となる技術が全く違うので、自動車産業で不動の地位にあると思われていたメーカーが、テスラのようなところを相手に大苦戦を強いられています。これまで蓄積してきた技術の多くがあっという間に意味を失ってしまうから、伝統的な大企業がその現実をすぐには受け入れられないってことでしょう。

【Aくん】つまり未来へと事業を継続するために、今すぐにイノベーションを目指す取り組みを始めなければならないってことでしょうか。でもそれって、かなり資金が必要そうですね。しかも不確実でリスクの高い投資だから、反対する人がたくさん出てきそうです。

【B先生】産業構造の激しい変化はもう日常的な風景として受け入れなければならないものです。未来が不確実であればあるほど、今の段階から準備を始める必要があります。理論的に考えれば、これは当然のことです。そのための資金となるのが、「利益」と呼ばれるものです。それを正確に表現するなら、ドラッカーも言うように「利益とは未来のためのコスト」ですね。明日も元気な企業であり続けるためには、大きな利益を上げなければなりません。

利益は恥ずべきものではなくて、マーケティング・イノベーション・生産性向上の成果としてもたらされるものです。それ自体が企業の様々な活動の結果だから、その最大化を実現する合理的な方法はなく、また何が最大かも分かりません。

利益は、不確実な未来に対する保険であり、労働環境を向上させるための財源であり、教育や医療や社会生活を豊かにするサービスの原資を形成するものです。

つまり利益が生み出せなければ経済活動は継続できません。その意味で経済は単に回っているのではなくて、イノベーションによって常にこれまでのサイクルから外れて新たな価値を生み出すことで動き続けています。だから、「経済を回す」と言う表現は、経済活動について誤った印象を与えます。お金が回ると言うのはわかりますが、それを可能にするには常に新たな魅力ある商品が市場に投入され続けていることが必要です。

疑問点7: 人権DDと「影響力の行使」

【Aくん】そうですか。この話は今の僕には少し難しすぎるので時間をかけて考えてみます。話は変わりますが、このところジャニーズ事務所の記者会見が話題となっていますね。僕の会社でも、かつてジャニーズのタレントをCM に起用したことが あったようです。会社として今後のジャニーズ事務所のあり方について何か「影響力の行使」としてコメントを出すべきかどうか法務部で検討しました。UNGPs では取引関係にある企業が人権侵害を防止するために積極的に行動することを求めてますから。

【B先生】確かに、多くの企業や放送局がそうした理解に基づいて、ジャニーズのタレントを番組から降板させるとか、契約関係を終了させるとか、被害者救済に関して勧告を出すとかいった反応が見られましたね。

私はこうした対応は、UNGPsの趣旨を誤解していると思います。確かに人権DDの中で、企業は取引先の人権侵害等についてそれを防止したり軽減したりするために影響力を行使すべき場合があるとしています。

しかし人権DDの主目的は、より早い段階で企業が人権侵害のリスクに対応することにより、それを防止・停止・軽減することです。ジャニーズに関して問題となったのは、既にこの世を去ったジャニー喜多川氏が長期にわたって行ってきた性加害の問題ですね。そうした人権侵害を事務所が容認してきたとか、放送局や企業がタレントを起用することで助長してきたとか言った問題はあったと思います。しかしそうした加害行為を誰も止めなかった結果として、被害は出尽くしてしまっていると考えられます。その意味では水俣病のような公害事件と同様の状況になってしまっています。

要するに放送局も企業も十分な人権DDを行わなかった結果として、被害を軽減するチャンスを既に失っています。だから 現場においては、人権DDの一環として求められる「影響力の行使」の場面ではありません。

【Aくん】それでは企業はどのようにすればよかったのでしょうか?

【B先生】今回の件で、ある企業はジャニー喜多川氏にセクハラの疑惑があるからCMを依頼しなかったと言っていますね。例えばその時に、その企業がジャニーズのタレントを起用してCM を流している他の企業に呼びかけて、ジャニーズ事務所にこの問題の真偽について問いただすようなことをしていれば、 早い段階で性加害の実態が明らかになっていた可能性はあるでしょう。そうした対応を行うことが、 UNGPs が指摘している「影響力の行使」であると思います。

現段階は、UNGPs に即して言えば「救済」の段階だから、日本の裁判制度がこうした問題に十分に対応できていない点であるとか、十分な苦情処理メカニズムが事業レベルでも行政やその他のレベルでも提供されていなかったことの問題点であるとか、日本の裁判におけるこうした被害者の損害賠償額があまりに低額である点などが真剣に検討されるべきであると思います。再発防止を真剣に考えるとすればそうした検討の方が重要です。

【Aくん】なるほど。確かにそうですね。ところでアメリカでもクリエイティブ産業で大きなセクハラの事件が話題になりましたね。

【B先生】ハリウッドの著名な映画プロデューサーであったハーヴェイ・ワインスタインが多くの女優に対して行ってきた性加害の事件ですね。SNSで#METOO が用いられた事で 多くの女性が声を上げた事でも注目されました。この事件は男性の女性に対するセクハラですが、極めて影響力のあるプロデューサーがその地位を乱用して加害行為を重ねたことや、彼の事務所や周辺の人たちが黙認していた点などでジャニーズの事件と強い共通性が見られます。

アメリカでどのような点が問題となり、どのような対応がとられたかについても色々と参考になるから、マスコミや研究者はそうした情報を日本にもしっかり伝えてほしいと思います。もちろん私自身も、知り合いの弁護士やNGOの関係者からも詳しい情報を入手しようとしています。また最近ではアメリカの法律雑誌にこの問題に関する論文が 次々と発表されています。

多くの女性が職場でのセクハラに不満を募らせており、そうした問題について十分な保護が与えられていないと言う点で、ここでも法制度に対するイノベーションが求められている事は明らかです。

終わりに

【Aくん】そうですね。色々と考えなければいけないことがたくさんあることがわかりました。とても勉強になりました。お忙しい中3回も長時間にわたり色々と丁寧に教えていただき本当にありがとうございました。法律学以外にもう色々と勉強しなければならないことがあるのがよく分かりました。僕自身の会社での仕事への取り組み方についても多くのヒントをいただきました。

【B先生】そう言っていただけると嬉しいですね。また何か私で役に立てそうなことがあれば遠慮なく連絡してください。君の職場の様子もまたいろいろ教えていただければと思います。それでは!(完)

 

〈注記〉本資料に関し、以下の点をご了承ください。
・ 本ニューズレターは2023年10月10日時点の情報に基づいて作成されています。
・ 今後の政府による発表や解釈の明確化、実務上の運用の変更等に伴い、その内容は変更される可能性がございます。
・ 本ニューズレターの内容によって生じたいかなる損害についても弊所は責任を負いません。