(第2回)イギリスでアフリカ社会と法を学ぶ
~「法制度はアフリカ社会を豊かにするのか」
現在、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院に在籍している原口 侑子弁護士によるニュースレターシリーズの第2回を発行いたしました。今後も引き続き連載の予定となります。
こちらの内容は、以下のリンクよりPDF版でもご覧いただけます。
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~「法制度はアフリカ社会を豊かにするのか」
(第2回)イギリスでアフリカ社会と法を学ぶ
~「法制度はアフリカ社会を豊かにするのか」
2024年 1月
One Asia Lawyers Group
原口 侑子(日本法弁護士)
アフリカ社会と法律を学ぶにあたって特有の視点が大きく二つある。
一つは多くの国で「法」が広く慣習法や慣習に基づく首長制度を含むこと(「代替司法制度」と呼ばれている)。こちらは法人類学という枠組みで学んでいる。
もう一つが、アフリカの法制度は、「結局この法制度があって私たち(市民)の地域は豊かになるのか」という問いとともに語られることが多いことだ。
いかにもGDPに影響を及ぼしそうな資源開発に関わる法令だけではない。ケニアのスタートアップ規制についても、南アフリカのCSR(企業の社会的責任)促進についても、ナイジェリアの汚職規制についてもアフリカ人権憲章(バンジュール憲章)についても根幹の問いは、「それではこうした法律や制度の施行はどのようにアフリカの各地域社会の『開発』―GDP向上だけではなく社会や生活の向上などの人間開発(Human development)―に資するのか」から始まる。
生活の向上というより社会の安定を求める傾向の日本でももちろん、法制度に絡む社会課題は山積している。ジェンダーや雇用・働き方の問題、汚職、周縁化された層の包摂など、中にはアフリカと共通する問題もあるが、その多くは明治時代から続く古い法律が時代に合わなかったり、または今まで「安定」を理由として社会の一定層を疎外し周縁化してきたことに目を向けてこなかったことといった、既存制度のひずみによる課題、もしくは施行のプロセスの問題だ。
これに対して、アフリカ諸国は独立後60年が経つ今、成長の裏でさまざまな社会課題に直面している。貧困、国家機関のガバナンスの不十分、西側で頻発するクーデター、土地や資源の管理をめぐる紛争、女性や若年層、移民・難民・避難民の人権など各国の課題は地域によっても、国際社会との力関係によっても異なるが、制度の未整備や機能が脆弱であること、施行が恣意的であることが問題になりやすい。植民地時代や独立後の混乱の後遺症も未だにある。その中で、「ではこれらの社会課題に対して、慣習を含む法律や司法制度はどのような役割を果たしてきたか、これからどのような役割を果たすべきか」というお題は、独立以降ずっと議論されてきた。
ということで、ロンドンの大学院では通期で「アフリカの法と開発」というコースを履修し、このお題について学んでいる。ナイジェリア、タンザニア、ジンバブエの弁護士でもある教授陣が教える授業は、各国の独立前後に始まった「アフリカ法と開発運動(Law and Development Movement)」が今「法の支配」や「法のエンパワメント・法教育」の議論に移行しているという理論史から始まる(*1 Baderin)。
大学院に来た身として私も「知の巨人の肩」の上に乗りながら、主にアフリカ各国から来た弁護士や法学生たちと、「アフリカの法律や司法制度はいった何のためにあるのだろうか」という議論をする。結局は国家と市民社会の健全な関係が必要ですよねという普遍的な結論には至るのだが(*2 Sherman)、そこに至るまでのプロセスは日本でのの議論とはやはり違う。
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何が違うかというとまず歴史が違う。日本では明治以前と明治以降で法制度の移行があったのに対し、アフリカでは法制度上は3つの遺産(Triple Heritage *3 Mazrui)が重なり合って現存していると言われている。それらは土着の慣習法、宗教法(イスラム教・キリスト教など)、植民地時代のヨーロッパの法制度と、アフリカ各地がたどってきた歴史の三つの層に重なる。しかし同じ大陸内にあってもこれらの重なり合いは異なる。「アフリカ大陸全体に通用する法制度はない」のだ(*2 Sherman)。
社会構造が違う。長きにわたって中央集権化されている日本と違って、政府が弱い国が多く(そもそも国家の国境線は植民地時代に引かれたものである)、政府のカバーしていない分野を市民社会(CSO)が担っている。
仕事の概念が違う。雇用概念が違う。日本でいう非正規雇用よりはるかに大きなインフォーマル経済(informal economy)がアフリカ経済の8割以上を占める(*4 ILO)。貧富の格差を表すジニ指数は各国で高く(*5 世界銀行)、格差が大きい各国の背景に照らして、知的財産権の保護は本当に正義なのかという議論がある。
人権問題のとらえ方も違う。例えば民族によっては女性が土地を相続できないルールがあり問題視されているが、民族の慣習法も重視されている国が多く、なかなか変える手段がない。しかしそもそも世界でうたわれている「個人の人権」の概念は、アフリカの人々が考えるもう少し広い意味での「人権」概念と同じなのか、という問いがある。ヨーロッパ的な人権を目指すのではなく、Ubuntu(ウブントゥ、南部アフリカの言語でコミュニティとのかかわりや絆といった意味)などのアフリカに根差した集団的人権概念とのすり合わせが必要なのではないか(*6 Andreasson)。そもそもマリの憲法(Kurukan Fouga)では13世紀前半の時点で既に生存権に近い規定があったのだということは、あまり知られていない。13世紀前半といえばイギリスのマグナカルタと同期である。
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さて、こうした各分野の議論を包含する問いかけとして、では市民は法律や司法制度に対してどういう形でアクセスし、関わることができるのかという問いがある。各国で、裁判所も少なければ法曹人口も少ない。これは司法過疎と言われ、日本では司法制度改革や法テラスが対応してきた分野であるが、アフリカではそのような紋切り型の対応ではつとまらない。トラブル解決や法手続の手段を市民に行きわたらせるためには、国家の法を施行する裁判所頼みでは到底足りないからだ(Access to justiceの問題)。
そもそも市民が法律や制度について知らない(これは日本もだが)。特にアフリカの貧困層にとって、法制度は「貧困を克服するための道具」ではなく、むしろ(日本以上に)「社会の繁栄や安全に対する障壁」となっていないかという議論が最近なされている(法のエンパワメント(Legal empowerment)の議論)。
つまり法制度が「規制」を行い、権力構造から遠い人びとに対して抑制的に機能する一方で、その人々は法律が貧困の克服や生活の安定の助けになり得ることを知らない。たとえば地域でのトラブル解決や雇用者との交渉、国家や大企業による土地の接収に対する賠償を求める根拠になる法や慣習、制度があるといったことを知らない。
「法はアフリカ社会を豊かにするのか」という問いへの答えは、ここまで示唆してきたように「アフリカ大陸全体に通用する法制度はない」が、「国家と社会の健全な関係に資するならば可能」というものになるが(*2 Sherman)、そのためには市民社会側に知識や道具が必要となる。その一つが「法のエンパワメント」である。
「法のエンパワメント」とは、「主に貧困層が法を体験する方法を変革し、制約的な体験からエンパワメントへと移行させること」であるという(*7 Cisse)。ではどうやって。
次号では、アフリカ各地、特に旧イギリス植民地だった東南部で活躍しているパラリーガル制度について紹介し、法律家人口が少ない各国で、司法を身近にし、市民社会の武器とする「法のエンパワメント」がいかに行われているかを説明する。
*1 Baderin,M.,“Law and Development in Africa; Towards a New Approach” (2010)
*2 Sherman, F.C., “Law and Development Today: The New Developmentalism” (2009)
*3 Mazrui, A., “The Africans: A Triple Heritage (1986)”
*4 ILO
2022, https://www.ilo.org/africa/events-and-meetings/WCMS_842674/lang–en/index.htm
2018, https://www.ilo.org/wcmsp5/groups/public/—ed_emp/documents/publication/wcms_792078.pdf
*5 World Bank https://data.worldbank.org/indicator/SI.POV.GINI?locations=ZG
*6 Andreasson, S., “Thinking Beyond Development: the Future of Post-Development Theory in Southern Africa” (2007)
*7 Cisse, H., “Legal Empowerment of the Poor: Past, Present, Future” (2013)