グローバルビジネスと人権:今さら聞けない素朴な疑問: 【第2回】サプライチェーンの深部と、AIをめぐる後ろめたさ【2026年】
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グローバルビジネスと人権:
今さら聞けない素朴な疑問:
【第2回】サプライチェーンの深部と、AIをめぐる後ろめたさ【2026年】
2026年6月
One Asia Lawyers Group
コンプライアンス・ニューズレター
アジアESG/SDGsプラクティスグループ
はじめに
第1回の面談から3週間が経ちました。Cくんは「本当にこれで最後にします」と言いながら、またD先生に連絡を入れました。今回のきっかけは2つありました。
ひとつは、購買部門の先輩から「最近、取引先から人権に関するアンケートが来るようになった。法務として何か分かる?」と聞かれたこと。「調べます」と言ってその場を切り抜けたものの、まったく分からなかった。
もうひとつは、法務部でMicrosoft Copilotが使えるようになったこと。セキュリティ審査が通ったと会社から案内が来たが、Cくんはほとんど使えていなかった。なんとなく後ろめたくて。
D先生はZoomを開けながら、軽く苦笑した。「また来たか」——でも、今回の質問は前回よりずっとまともだと思った。
舞台設定(第2回)
C くんが勤める企業はグローバルにサプライチェーンを展開する製造業グループ。鉱物調達から組立・販売まで、世界10カ国以上の取引先が絡む。購買部門が受け取った「人権アンケート」は、欧州の大手取引先から送られてきたものだった。
Q1 人権DDって何ですか? 法律じゃないのに義務なんですか?
【Cくん】先生、人権デューデリジェンス(DD)ってよく聞くんですが、義務だと言われているのに法律じゃないとも聞いて。いったいどういうことですか?
【D先生】いい問いです。まずこれだけは最初に確認しておきましょう——2011年に国連人権理事会が全会一致で支持したビジネスと人権に関する指導原則(UNGPs)には、法的拘束力がありません。
【Cくん】じゃあ、守らなくてもいいんですか?
【D先生】(苦笑)そこが面白いところです。法的拘束力がないのに、なぜ世界中の企業が対応を迫られているのか——この謎を解くカギが『ソフトロー』という概念です。
ソフトローとは何か——UNGPsの設計思想
D先生は「ソフトロー」の説明から始めた。
【D先生】国際法の世界には、ハードローとソフトローという区別があります。条約や慣習国際法のように法的拘束力のある規範がハードロー。これに対してソフトローは、形式的な法的拘束力を持たないが、国際的な規範として広く参照される文書や原則のことです。
【Cくん】ソフトローって、要するに『任意のガイドライン』みたいなものですか?
【D先生】そう思いたくなる気持ちはわかりますが、そうではない。ここが重要なポイントです。 D先生が説明したのは、UNGPsを起草したジョン・ラギー(John Ruggie)ハーバード大学ケネディスクール教授の戦略的な設計思想だった。
【D先生】ラギーは国際政治学・国際関係論の専門家で、1990年代には国連事務総長の政策顧問も務め、コフィー・アナン事務総長の下でグローバル・コンパクト構想の形成にも関わった実務志向の理論家です。2005年に国連から『ビジネスと人権』に関する特別代表に任命されたとき、彼に与えられた任務は明確でした。新条約の起草ではなく、『既存の基準や慣行を特定し、明確化すること』でした。
【Cくん】条約を作らなかったのはなぜですか?
【D先生】そこが肝心です。2003年に企業の直接的な国際義務を定める草案(Draft Norms)が提示されましたが、政治的反発により頓挫しました。加盟国は拘束的な文書の再挑戦を明確に避けようとしていた。
【D先生】そこでラギーは、条約でも決議本文でもなく、2011年3月21日付の最終報告書(UN Doc. A/HRC/17/31)の附属文書(Annex)として提示するという形式を選びました。人権理事会はこれを『支持(endorse)』したという構造です。
【Cくん】ちょっと待ってください。報告書の附属文書で全会一致の支持……? なんか抜け穴みたいに聞こえます。
【D先生】(笑)鋭い。でも、これは抜け穴ではなくて、むしろ逆説的に賢い設計です。ラギー自身が著書『Just Business』(2013年)で説明しているように、条約交渉を回避することで政治的合意を最大化する——それが彼の戦略だったのです。
対立を超える「権威ある焦点」
【D先生】当時の議論は、『企業に法的義務を課すべきか』対『企業の自主的取り組みに委ねるべきか』という二元論に陥っていました。ラギーはこの対立そのものを乗り越えようとした。
【D先生】彼が提示したのは、『権威ある焦点(authoritative focal point)』として機能するソフトローです。国家・企業・市民社会の期待を一点に収束させる——そういう戦略的な設計です。
【Cくん】具体的にはどういう内容なんですか?
【D先生】UNGPsの中心概念は『Protect, Respect and Remedy(保護・尊重・救済)』という三本柱です。国家は人権を保護する義務を負い、企業は人権を尊重する責任を負い、被害者には救済へのアクセスが保障されるべきである、という枠組みです。
【Cくん】企業に義務ではなく責任という言葉を使っているのには理由があるんですか?
【D先生】そこに気づいたのは素晴らしい。意図的な選択です。企業責任は国家の『義務(duty)』ではなく、『社会的期待に基づく責任(responsibility to respect)』として定式化されました。企業を国家の代替主体にするのではなく、国家義務を前提にその補完として整理する——この構造が、条約なしに広範な政治的合意を生み出した秘訣です。
【D先生】さらにラギーは、グローバル企業を取り巻く『ガバナンス・ギャップ』に対応するため、市場・金融・契約・非司法的救済メカニズムを組み合わせた多中心的(polycentric)なアプローチを構想しました。人権デューデリジェンスを中核概念としたのは、その実務的効果を重視した結果です。
ソフトローの「ハード化」——EU法制化と日本の現在地
【D先生】UNGPsは法的拘束力を持たないにもかかわらず、急速に国際標準として定着しました。6年間にわたって47回の国際協議、20カ国以上の現地訪問を重ねて構築されたコンセンサスがその基盤です。
【D先生】EUでは2024年に企業持続可能性デュー・ディリジェンス指令(CSDDD)が成立し、人権デューデリジェンスが法的義務として制度化されました。ドイツでは2023年にサプライチェーン・デュー・ディリジェンス法(LkSG)が施行されました。米国ではウイグル強制労働防止法(UFLPA)が2022年に施行されています。
【Cくん】日本はどうですか?
【D先生】日本では依然としてガイドライン型アプローチが中心で、経済産業省の人権尊重ガイドラインがその代表例です。ただし重要なのは、投資基準・サプライチェーン契約・取引先からの要請・情報開示義務を通じて、事実上の拘束力が形成されていることです。
【ポイント】ソフトローは『弱い法』ではなく、『市場と制度を通じて拘束力を獲得していく規範』です。UNGPsはその典型であり、今まさにハード化の過程にある。
Q2 コンゴのコバルトとか、ウイグルとか……うちの会社に関係ありますか?
【C くん】先生、コンゴのコバルト採掘や、新疆ウイグル自治区の強制労働の話をニュースで見ました。うちは製造業ですが、正直、そんな遠い話がうちに関係あるのかが分かりません。
【D 先生】関係がある、というよりも、関係がないという前提自体が危険です。 グローバルなサプライチェーンにおいて、最終製品メーカーと原材料採掘の現場は、多くの場合10〜20社の取引を経てつながっています。スマートフォンに使われるコバルトの60%以上はコンゴ民主共和国産で、その一部は深刻な児童労働・危険労働を伴う零細採掘(artisanal mining)から来ています。太陽光パネルや繊維製品の一部は新疆ウイグル自治区で強制労働が疑われています。
【D 先生】あなたの会社が直接取引しているわけではなくても、その部品の部品の部品の先にこうした問題があり得ます。UFLPAは『新疆産の製品は強制労働によるものと推定する』という転換した証明責任を企業に課しました。つまり、知らなかったでは済まされない時代になっています。 【C くん】知らなかったでは済まされない……。でもどうやって確認するんですか? うちが直接取引しているわけでもないのに。
【D 先生】それが人権DDの核心です。把握すべき範囲と方法を定めることが、実務の出発点になります。サプライチェーンをどこまで遡るか、どのようなリスク評価を行うか、苦情処理メカニズムをどう設計するか——これらは次のステップで詳しく話せますが、今日のポイントは『知らなかった』では法的・事業上のリスクが遮断できない時代が来ているという認識です。
【ポイント】最終製品メーカーも、サプライチェーンの深部にある人権リスクから免責されない。UFLPAは証明責任を企業に転換した。『知らなかった』という言い訳は通用しない。
Q3 法務部でCopilotが使えるようになったんですが、なんか後ろめたくて……
【C くん】先生、実は今日もう一つ聞きたいことがあって。法務部でMicrosoft Copilotが使えるようになったんです。セキュリティの審査も通っているって会社から案内があって。でも正直、あんまり使えていません。後ろめたいというか、何となく怖い感じがして。
【D 先生】……それ、かなり重要な話です。 D先生は少し前のめりになった。こういうとき、彼の頭の中では複数の問題が瞬時に整理される。AIをめぐる問題は、2026年現在、ビジネスと人権の最前線にある。
【D 先生】まず確認しますが、後ろめたいというのは何に対して?
【C くん】なんというか……AIが作った文章を自分の仕事として出すのが誠実じゃない気がして。あと、入力した内容が外部に漏れないか。あと、そもそも使い方もよくわからないし。
【D 先生】全部正当な懸念です。でも整理が必要。三つの問題が混在しています。まず分けましょう。
D先生はホワイトボードを共有した(実際にはZoomの画面共有だったが、彼のスライドは驚くほど整理されていた)。
【D 先生】特に3番目が重要です。今や法務担当者がAIを使えないことの方が、業務上のリスクになりつつある。AIの正しい使い方・危険な使い方を自分で理解し、組織内での議論をリードできる人材が求められています。
【C くん】でも、AIってどういう仕組みで動いているんですか? 正直、魔法箱みたいなイメージで……
【D 先生】それを知らないと、どこで間違えるかが分からない。基本だけ押さえましょう。 ChatGPT、Copilot、Geminiなどの大規模言語モデル(LLM: Large Language Model)は、巨大なテキストデータから言葉の統計的なパターンを学習したシステムです。「次にどの言葉が来るか」を確率的に予測することで文章を生成します。
【D 先生】これが意味することは:AIは『知っている』のではなく『それらしい文章を生成している』ということです。法律の条文を正確に引用しているように見えても、実際には存在しない条文を生成する『ハルシネーション(幻覚)』が起こります。これが法務業務でAIを使う際の最大のリスクです。
【C くん】え、AIって嘘をつくんですか?
【D 先生】嘘をついているのではありません。正確に言えば、『それらしい文章を生成した結果が事実と異なることがある』です。AIに悪意はない。だから逆に怖い。確信を持って間違ったことを言う。
【C くん】じゃあ、法務担当者はAIをどう使えばいいんですか?
【D 先生】AIが得意なこととそうでないことを理解した上で使う。下書き・整理・要約・対訳——これらはAIが非常に得意です。一方、法的判断・事実確認・機密情報の扱い——これらは人間が責任を持つべき領域です。そしてこの線引きを、組織の中でちゃんと議論することが重要です。後ろめたさのまま使わないでいるのは最も良くない。
【C くん】……使わないでいるのが一番ダメ、ということですね。
【D 先生】使い方について意識的に考えることを怠ることがダメ、ということです。
【ポイント】AIは『知っている』のではなく『確率的に生成している』。ハルシネーション(事実と異なる生成)のリスクを理解した上で、得意な領域(下書き・要約・整理)に活用し、法的判断・事実確認には人間の責任を維持することが鉄則。後ろめたさのまま使わないでいることが最大のリスク。
📚 推薦図書 『Co-Intelligence: Living and Working with AI』 Ethan Mollick 著(Portfolio/Penguin) → ペンシルベニア大学ウォートン・スクールの教授が書いた、AIとどう『共に生きるか』についての最も現実的な一冊。恐れるのでも盲信するのでもなく、AIの本質を理解しながら実践的に使うための視点が凝縮されています。法務担当者にも直接参考になる。2024年刊行で情報が新しい。
AIと人権——2026年の最前線
D先生はここで少し立ち止まった。Cくんの質問から少し先の問題を話しておく必要があると思ったからだ。
【D 先生】AI自体が人権問題と深く結びついていることも知っておいてください。データラベリング労働者の劣悪な労働環境、採用AIによる人種・性別差別、顔認識技術の監視への悪用——これらは今やビジネスと人権の中心的な問題です。
2026年2月、OECDは『責任あるAIのためのデューデリジェンス・ガイダンス』を公表しました。UNGPsをAI分野に特化して適用したもので、企業はAIの開発・展開・利用を通じて生じる人権影響を特定・評価・防止・是正する責任を負うとしています。
EUのAI法(AI Act)は2024年8月に発効し、高リスクAIシステム(採用・信用評価・司法分野での利用)に対する義務は2026年8月から本格適用されます。日本では2025年にAI推進法が成立し、ソフトロー中心のアプローチが取られています。また同年改定された「ビジネスと人権」行動計画(NAP)では、AIが初めて独立した人権課題として位置づけられました。
【C くん】つまり、AIは法務部が使うだけじゃなくて、法務部が監視・管理すべき問題でもある、ということですか?
【D 先生】まさに。それが法務担当者として、今AIに積極的に関わるべき理由の一つでもあります。
【ポイント】AIは企業法務の新たなフロンティア。使う側として理解すべきだけでなく、AI自体が生むリスク(差別・監視・労働搾取)を管理・監視する視点も法務担当者に求められている。
📋 第2回 これだけは覚えておこう!
✔ UNGPsはソフトローとして設計されたが、EU・ドイツ等の立法化を通じて日本企業にも実質的に影響が及んでいる。取引先からの人権アンケートはその最前線。
✔ 『知らなかった』は免罪符にならない。UFLPAはその象徴で、証明責任を企業側に転換した。サプライチェーンを遡るリスク評価が実務の核心。
✔ AIはハルシネーションのリスクを理解した上で積極的に活用すべき。後ろめたさのまま使わないでいることが最大のリスク。使い方を組織で議論することが重要。
✔ AI自体が新たな人権リスクを生む。法務担当者はAIの利用者であると同時に、AIガバナンスの担い手でもある。
▶ 次回予告:第3回「会社は誰のもの?——コーポレートガバナンスの本質と日本の課題」

