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グローバルビジネスと人権: 「ビジネスと人権」の交差点に立つ日本:第三者委員会の課題と仲裁制度の展望 (その1)

2025年06月10日(火)

グローバルビジネスと人権に関し、「『ビジネスと人権』の交差点に立つ日本:第三者委員会の課題と仲裁制度の展望 (その1)」と題するニュースレターを発行いたしました。こちらの内容は、以下のリンクよりPDF版でもご覧いただけます。

グローバルビジネスと人権: 「ビジネスと人権」の交差点に立つ日本:第三者委員会の課題と仲裁制度の展望 (その1)

 

グローバルビジネスと人権:

「ビジネスと人権」の交差点に立つ日本:第三者委員会の課題と仲裁制度の展望 (その1)

2025年6月
One Asia Lawyers Group
コンプライアンス・ニューズレター
アジアESG/SDGsプラクティスグループ

1. はじめに
2. ハーグ常設仲裁裁判所(PCA)のビジネスと人権に関する仲裁制度の背景
(以上、 本号)

1. はじめに

企業による人権侵害をめぐる問題は、ジャニーズ事務所における長年の加害行為の告発を契機に、日本国内でもかつてないほどの社会的関心を集めるようになりました。企業の説明責任と被害者救済の必要性が広く認識されるなか、多くの企業が日弁連のガイドラインに基づく「第三者委員会」を設置し、外部の視点から事実関係を調査し提言を行うことが標準的な対応として定着しつつあります。

第三者委員会は、「企業等から独立した委員のみで構成され、徹底した調査を実施した上で、専門的な知見と経験に基づいて原因を分析し、必要に応じて具体的な再発防止策を提言する」ことを目的とした仕組みです。企業の主導によって迅速な調査が可能となる点は、大きな利点の一つとされています。また、第三者委員会は「経営者等のためではなく、すべてのステークホルダーのために調査を実施し、その結果を対外的に公表することで、最終的には企業の信頼回復と持続可能性の確保を目指す」ことを使命として掲げています。

しかしながら、こうした理念とは裏腹に、第三者委員会には制度的な限界が内在していることも指摘されています。とりわけ、手続きの中立性と信頼性の確保は大きな課題です。たとえば、委員の選任権が企業側にあることから、その選任プロセスの透明性が担保されにくく、調査の公正性に対する疑念が生じる余地があります。また、調査費用を企業が全額負担する構造も、調査結果の受け止め方に影響を及ぼしやすい要素です。企業に対して配慮的な結論が導かれるのではないか、あるいは逆に、外部からの批判をかわすために過度に厳しい内容になるのではないかといった不信感が生まれやすく、報告書の正当性や社会的説得力を損なうリスクがあることも否定できません。

さらに本質的な問題は、調査報告書に法的拘束力がなく、被害者が実質的な救済を得られる仕組みが存在しないことです。たとえ不適切な行為が認定され、提言がなされたとしても、それが加害企業に対する制裁や再発防止策の実行、そして何よりも被害者の権利回復につながるとは限りません。こうした状況は、国連が2011年に採択した「ビジネスと人権に関する指導原則(UNGPs)」が掲げる「救済へのアクセス」の核心部分――被害者が公正かつ有効な救済を受ける権利――に、第三者委員会という手法が制度的に応えることができていないという重大な問題を浮き彫りにしています。

こうした制度的ギャップを埋める新たな手段として、国際的に注目されているのが「ビジネスと人権」に関する仲裁制度です。とりわけ、常設仲裁裁判所(PCA)が策定した新しい仲裁規則は、企業と被害者の間にある構造的不平等を前提に、透明性・中立性・参加性を確保した仕組みとして整備されており、持続可能で実効的な救済の実現を目的としています。

そこで本稿では、第三者委員会の役割を補完し、UNGPsの要求を充足するための仕組みとして、PCAによる「ビジネスと人権仲裁」の意義と制度設計、そしてその日本における活用可能性について検討します。

2. ハーグ常設仲裁裁判所(PCA)のビジネスと人権に関する仲裁制度の背景

常設仲裁裁判所(PCA)がビジネスと人権に関する仲裁制度の整備に乗り出した背景には、現代の国際社会における深刻な構造的課題と、それに応える制度的必要性がありました。

2.1  PCAの歴史的背景

常設仲裁裁判所(PCA、Permanent Court of Arbitration)は、1899年の第1回ハーグ平和会議で設立された、国際紛争の平和的解決を目的とする機関です。19世紀末の第一次グローバル化時代に、帝国主義や国家間の対立が激化し、戦争のリスクが高まる中、武力衝突を回避するための国際的な紛争解決メカニズムの必要性が認識されました。この背景から、1899年のハーグ条約(1907年に改訂)に基づきPCAが創設され、仲裁や調停を通じて国家間、または国家と企業・国際機関などの非国家主体間の紛争を解決する枠組みを提供しています。

PCAは、国際法を基盤に、中立かつ専門的な仲裁手続きを行うことで知られています。特に、投資協定に基づく投資家対国家の紛争解決(ISDS)や、国境紛争、海洋法(UNCLOS)関連の仲裁で重要な役割を果たしてきました。例として、南シナ海仲裁(フィリピン対中国、2016年)が挙げられます。本部はオランダのハーグにあり、平和宮に設置されています。PCAは常設の裁判所という名称ですが、実際には仲裁人や調停者をケースごとに選任する柔軟な制度であり、国際司法裁判所(ICJ)とは異なり、特定の裁判官を常時置くわけではありません。これにより、多様な紛争に対応可能な枠組みを提供しています。

2.2  「ビジネスと人権に関する指導原則(UNGPs)」

2011年、国連人権理事会は「ビジネスと人権に関する指導原則(UNGPs)」を採択し、企業による人権尊重の責任と国家による人権保護義務を明確にしました。しかし、実務の現場では、多国籍企業による人権侵害に対して、被害者が国内外の司法制度を通じて実効的な救済を受けることは依然として困難です。特にグローバル・サウスに暮らす住民や労働者にとっては、資金、法的支援、証拠アクセスの不足など、制度的・構造的に不利な条件が重なり、企業の本国で訴訟を起こすハードルは極めて高いのが現状です。

こうした救済アクセスのギャップを埋める新たな手段として、2017年以降、国際仲裁と人権に関する新たな制度設計が議論されてきました。人権専門家や国際仲裁の実務家、法学者らの主導により、企業と人権をめぐる紛争に特化した仲裁制度の構想が本格化し、常設仲裁裁判所(PCA)もこれに事務局として関与。2020年には、「ビジネスと人権に関するハーグ仲裁規則(The Hague Rules on Business and Human Rights Arbitration)」が公表されました。

この仲裁規則は、UNCITRAL仲裁規則をベースにしつつ、人権問題に固有の非対称性、透明性、関係者の参加性などに配慮した特別な設計がなされています。PCAが本制度に取り組む背景には、以下の要因が複合的に存在します。

  • 国家司法制度による対応の限界:国境を越えた構造的な人権侵害に対応するには、中立的かつ信頼性の高い国際的な紛争解決手段が求められていたこと。
  • PCAの実績と中立性:国家間紛争や投資仲裁において長年の経験と信頼を有しており、その知見を人権紛争にも活かせる体制が整っていたこと。
  • 企業のニーズの変化:ESG投資やサステナビリティ経営の進展に伴い、企業側も人権リスクへの対応や、非対立的な紛争解決手段を重視するようになってきたこと。


ハーグ仲裁ルールのもとでは、被害者となる個人や地域コミュニティが企業またはその関連主体を相手取り、国際仲裁という場を通じて救済を求めることが可能となります。ただし、従来の商事仲裁とは異なり、仲裁合意の成立、手続の公開性、費用負担の在り方など、制度運用上の課題も指摘されています。

とりわけ、被害者側の経済的負担を軽減するためには、費用支援の仕組みや第三者資金提供(TPF)、専用基金の創設といった制度整備が不可欠です。これらの整備が、制度の持続可能性と実効性を左右する重要な要素となります。

実際に、2013年にバングラデシュのラナプラザ工場が崩壊した事件を契機として、ブランド企業と労働組合が締結した「International Accord(国際協定)」に基づき、少なくとも2件の人権関連仲裁がPCAで実施されたと報告されています。しかしながら、現在のところこうした実施例は限られており、制度としての普及には至っていません。

今後の普及に向けては、企業が自社の人権方針や契約文書に仲裁条項を盛り込む動きが広がるかどうか、さらにEUで進められている企業の人権デューデリジェンス義務(CSDDD)との整合性の確保も重要な論点となるでしょう。

PCAによるこの取り組みは、単なる紛争解決手段の一つにとどまらず、経済活動と人権保護の接点において、新たな国際秩序の形成に寄与する試みといえます。今後、企業と人権の調和を実現するうえで、PCAの役割は一層重要性を増していくことが期待されます。

(次号に続く)