グローバルビジネスと人権: ビジネスと人権をめぐる規範形成の現在地: UNGPs誕生から人権デュー・ディリジェンス実務まで
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グローバルビジネスと人権:
ビジネスと人権をめぐる規範形成の現在地:
UNGPs誕生から人権デュー・ディリジェンス実務まで
2025年12月
One Asia Lawyers Group
コンプライアンス・ニューズレター
アジアESG/SDGsプラクティスグループ
1. はじめに
2.企業の人権尊重責任は法制度を超える高次元の責任
3.人権DDの意義と具体的内容
4. ステークホルダーエンゲージメント
5.結語――企業価値と人権尊重の統合へ
1 はじめに
企業活動が国境を軽々と越える現代において、企業による人権侵害の問題は特定地域の特殊な課題ではなく、グローバル市場の構造的問題として顕在化してきた。冷戦以降、企業は技術革新と市場統合の波に乗って巨大化し、国家の規制権限を凌駕し得る存在となった。多国籍企業が展開するサプライチェーンは世界中へ張り巡らされ、そのなかで児童労働、強制労働、環境破壊、先住民族の土地権侵害など、国家が十分に規制できない領域で深刻な人権問題が発生してきたことは記憶に新しい。この現実を前にして、従来の国家中心の人権保障モデルでは企業社会の実態に対応できないことが徐々に明らかになっていったのである。
ここで留意すべきは、経営学の泰斗ピーター・F・ドラッカーが、企業とは本質的に「社会のために機能する制度」であり、「組織は人間に奉仕するために存在するのであって、人間が組織に奉仕するのではない」と喝破した点である。ドラッカーにとって企業とは、市場競争の単なる主体ではなく、社会的課題に応答し、人間の尊厳・能力・機会を拡張し得る制度的装置であった。ゆえに企業は、利潤追求を正当化するためにも、人間に対する価値実現という根源的目的に整合していなければならず、その目的に反する行動は組織合理性の自壊を意味する。企業が生産性や効率性を追求すること自体は否定されないが、その追求は、人間の尊厳を毀損せず、むしろ高める方向性と両立しなければ企業の存在意義は成立しないのである。
この観点に基づけば、人権とは企業外部から付与される「制約」ではなく、企業が組織として正統性を維持するための「内在的条件」であることが明確になる。すなわち、企業が人権を尊重するのは、規制回避やレピュテーション管理の手段ではなく、企業が社会的制度として存立し続けるための不可欠な基礎であり、企業目的そのものに内包された要請なのである。ドラッカーの思想は、企業を価値中立的な利潤獲得装置として理解する旧来の経済合理性を超克し、企業の存在理由を「人間の尊厳を中心に据えた社会的制度」として再定義する試みであった。
こうした問題意識の延長線上において、国連は2005年、ジョン・ラギー教授を「ビジネスと人権」特別代表に任命し、企業行動に関する新しい規範構築を開始した。ラギーは国際政治学、制度設計論、開発経済学、国際機構論など複数分野を横断する学際的研究で知られた人物であり、国家・企業・市民社会の力学を制度レベルで再構成する理論的手腕を備えていた。彼の研究は、制度が社会的目的を帯びつつ機能すべきという規範的視座を内包しており、組織が人間に奉仕する存在であるというドラッカーの理念と明確な親和性を持っていた。ラギーの著作や講演に直接的な引用が多く見られるわけではないものの、彼の構想力と問題設定の背景には、組織の存在意義を社会的価値の創出に求めるドラッカー的発想が深く通底していることは、両者の思想的基盤の近接性を踏まえれば疑いようがない。
2011年に策定された「国連ビジネスと人権に関する指導原則(UNGPs)」は、まさにこうした学際的思考の集成体である。UNGPsは法制度論の枠にとどまらず、社会哲学、経営学、開発政策、国際人権法、リスクマネジメント、サプライチェーン管理といった多領域の知見を統合して構築されている。そのためUNGPsは、企業の人権責任を単なる法的義務に還元せず、企業活動の制度設計・組織文化・ガバナンス構造の根幹に位置づける包括的原理として提示することに成功した。この点においてUNGPsは、人権尊重を企業活動の付随的要素ではなく企業目的を規定する制度原理として位置づけ、ドラッカーが提示した「企業は人間に奉仕する存在である」という思想を国際規範の形で制度化する、企業史的にも画期的な転換点となった。
UNGPsの採択は条約のような法的拘束力を持つものではない。しかし国連人権理事会が総会一致でこれを承認した事実は、国家のみならず企業もまた人権尊重の主体であるという理解が国際社会において確立したことを意味する。UNGPsは「国家の人権保護義務」「企業の人権尊重責任」「救済アクセスの確保」の三層構造から成り立つが、特に革新的であったのは、企業が自ら主体的に人権影響を管理すべき存在であると明示した点である。これは企業責任の水準を単なる法遵守から倫理的・社会的責務へと引き上げ、ドラッカーの思想を理念にとどめず具体的な行動規範として具現化した瞬間であった。
2 企業の人権尊重責任は法制度を超える高次元の責任
UNGPsの真価は、単に企業の法令遵守義務を再確認した点にあるのではなく、企業の人権責任を「法的要請の外側にまで広げた」点にある。これは、企業の責務を国家法によって規定された最低限の水準に限定するのではなく、企業自らが社会的制度としての存在意義を維持するため、人権尊重を組織目的の基盤に据えるべきだという、ドラッカー的要請を制度化した帰結でもある。企業はもはや、受動的な法規制の対象ではなく、社会的価値形成の主体として行動することが期待されるのである。
企業がなぜ法的責任を超える次元で行動する必要があるのか。それは、第一に、企業活動が国家の主権領域を超えて展開する以上、国内法規制だけではその行動を十分に律することができないからである。第二に、国家によって人権保障の水準は大きく異なり、法制度が脆弱な地域では企業が実質的に無制限の影響力を行使できてしまう危険が存在する。第三に、規制が及ばない領域こそが重大な人権侵害の温床となることが、国際調査の蓄積によって示されてきた。
こうした現実に照らすと、企業の人権尊重責任とは、外部環境によって上から課される義務ではなく、企業自らが社会的信頼性と持続可能な価値創造を確保するうえで不可欠な条件であることが理解できる。もはや人権対応は、企業が社会で活動するための「免許(license)」そのものであり、UNGPsは単なる補完的基準ではなく、企業の存在意義を再編成する規範として定着しつつある。
3 人権DDの意義と具体的内容
UNGPsが企業の人権尊重責任を実質化するうえで中核をなす概念が「人権デュー・ディリジェンス(Human Rights Due Diligence、以下人権DD)」である。人権DDとは、企業が自らの事業活動およびサプライチェーンを通じて生じ得る人権への負の影響を特定・評価し、これを予防・軽減・是正し、さらにその取り組みの実施状況を追跡・検証し、透明性をもって対外的に説明する一連の継続的プロセスを指す。すなわち人権DDは、企業が人権尊重を事後的な危機対応ではなく、経営判断の前提条件として組み込むための制度的枠組みであり、今日の国際基準では、企業が責任主体として認められるための最低限の要件となっている。
とりわけ重要なのは、人権DDの対象が企業自身の行為にとどまらず、子会社、仕入先、外部委託先を含む広範なサプライチェーン全体へと拡張されている点である。企業が意図的でなかったとしても、取引関係を通じて人権侵害に関与する構造が存在する限り、企業はそのリスクを把握し、是正する努力を求められる。この観点は、企業を社会的制度と位置づけ、「組織は人間に奉仕するために存在する」と説いたドラッカーの思想と軌を一にする。すなわち企業経営における価値創造の出発点を人間の尊厳に見出す以上、人権DDは外在的な負担ではなく、企業が制度的正統性を維持するための内在的要請なのである。
一般的に人権DDは、
① 人権影響の特定・評価
② 予防・軽減措置の策定・実行
③ 実施状況の追跡・監視
④ 情報開示およびステークホルダーとの対話
という四段階の循環型プロセスから構成される。このプロセスは一度実施して終わるものではなく、事業内容、技術、社会環境の変化に応じて不断に更新され続けるべきものである。特に欧州では近年、企業に人権DDを義務づける立法化が急速に進展しており、日本企業も例外なく対応を迫られる局面に入っている。
4 ステークホルダーエンゲージメント
人権DDが実質的に機能するためには、企業内部の分析だけでは不十分である。人権リスクとは必ずしも企業側から可視化できる形で顕在化するものではなく、労働者や地域住民、先住民族など、影響を直接受ける当事者の経験、生活環境、社会的脆弱性を理解しなければ把握できない。ゆえにUNGPsは、人権DDの一工程としてステークホルダーエンゲージメントを位置づけ、企業と利害関係者との双方向的対話を不可欠の要素としている。
企業が対話すべきステークホルダーには、自社従業員のみならず、サプライチェーン上の労働者、地域社会、消費者、市民社会団体、投資家など多様な主体が含まれる。これらの声を企業が意思決定に反映させる行為は、単なる意見聴取ではなく、企業が社会的制度として人間の尊厳に奉仕するというドラッカーが提示した原理を、具体的な企業行動へと落とし込む実践である。
効果的なエンゲージメントには
・アクセシビリティ(参加しやすさ)
・説明責任
・包摂性
・継続性
といった要素が求められる。形式的な対話は企業の信用を損ないかねないが、真に実効的な対話は、企業が気づき得なかったリスクを可視化し、人権侵害を未然に防ぐ能力を高める。こうして企業は人権対応を「外部から課される負担」ではなく、企業価値を創造し、社会的信頼を蓄積する戦略資源へと転換することが可能となるのである。
このように、人権DDとステークホルダーエンゲージメントは別個の制度ではなく、企業が人間に奉仕する制度として成立し続けるための統合的プロセスである。企業が社会的存在としての自律性と正統性を確保するためには、ドラッカーの思想に照らしても、両者は不可欠な両輪といえる。
5 結語――企業価値と人権尊重の統合へ
国連ビジネスと人権に関する指導原則は、企業を国家法体系の受動的主体から、人権尊重を担う能動的主体へと位置づけ直した。その影響は、もはや理念の領域にとどまらない。各国の立法動向、投資市場の評価軸、消費者の選好、そして企業評判の形成過程に至るまで、人権対応は企業の競争環境そのものを再構成しつつある。
企業が人権尊重責任を真に遂行するためには、法令遵守に安住するのではなく、人権DDを通じて事業活動を絶えず監視し、ステークホルダーの声に耳を傾け、救済制度を実装することが不可欠である。人権尊重は、社会的付加価値やブランド構築の補助線ではない。むしろ、それは企業が市場での存在意義を確立し、信頼を資本として蓄積していくための根源的要素である。
[当事務所からのメッセージ]
UNGPs誕生から十余年を経た今日、企業はもはや人権対応の重要性を否認する余地を有 しません。問われているのは、企業がこの新しい規範環境を受け入れる覚悟と、その実践を持続的に制度化する能力です。当事務所は、人権対応が企業の次の成長段階を切り拓く力となると確信しており、皆様の制度構築、実務運用、社内教育、対外開示など、あらゆるフェーズにおいて支援を提供する準備を整えております。企業がこれから向き合う未来は、法制度を超えた次元での規範形成と社会的信認の獲得にあります。人権尊重は、その未来を切り拓く最も確実な羅針盤であると言えるでしょう。

